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交響する群馬へ

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 〈群馬〉は、関東平野の北端にあたる地域である。北方には太平洋側と日本海側とを分ける三国連峰が連なり、東方と西方は山地によって囲まれ、中央部に聳える赤城山や榛名山の裾野は南方の関東平野へとゆるやかに広がっている。北方の山岳地帯からの水流は、「坂東太郎」と呼ばれる利根川に集約されてほぼこの地域を縦断しながら流れ、時に激しい空っ風がその水面を波立たせる。浅間山などの火山は長い歴史のなかでいくたびかこの地域を灰によって埋め立て、利根川はしばしば氾濫を起こしたものの、こうした自然環境は、〈群馬〉独自の風土を育んできた。
 この〈群馬〉にはさまざまな道が交錯している。信濃から下野へとぬける東山道は〈群馬〉の東西を貫いて都と東北地方とを結んでいたが、江戸時代以降は中山道として都と江戸とをも結ぶ陸上交通路となり、越後へと向かう三国街道は日本海側と太平洋側とを繋ぐ重要な役割を担っていた。また、利根川及びその支流は、水上交通の大動脈の役割を果たしており、とくに倉賀野の倉賀野河岸は、中山道の宿場町であるとともに江戸に向かう本船の遡航終点でもあったために、信濃や越後方面と江戸とを結ぶ水陸交通の要所として栄えた。〈群馬〉は、陸の道と河の道が交錯しつつ、都と東北地方、江戸と北陸地方を結んできたのであった。
 これらの道を通って、さまざまな人びとや物がこの地を行き交ってきたのであるが、しかし、人びとや物、あるいはそれらがもたらす有形?無形の文化は、この陸と河の道をただ行き交うばかりではない。陸の道はそれぞれ峠によって隔てられ、河の道はこの地において尽きる。峠を越えるものや峠を越えてくるものはこの地にひと時とどまり、河を往還する船はこの地に停泊する。〈群馬〉は、行き交うものたちの居留する地としてあり、さまざまな文化が交わり合い、響き合いながら重層的に独自の文化を形成させてきたのである。
 その広がりは、近隣地域にとどまらず、北陸や東北、あるいは都や江戸、さらには、アジア、西欧まで及んでいよう。人びとや物品の移動は、ことばや文化、あるいは社会や宗教などに変革をもたらし、〈群馬〉は、さまざまな地域の文化を取り入れながら重層的な厚みをもってその風土を形成してきたのである。
 〈群馬〉は、〈みやこ的なるもの〉〈あづま的なるもの〉〈江戸的なるもの〉、〈関東的なるもの〉〈北陸的なるもの〉〈東北的なるもの〉、あるいは〈日本的なるもの〉〈アジア的なるもの〉〈西洋的なるもの〉などが交差、交響しあう地域であり、国際的な多文化が存在する地域でもある。
 交響する〈群馬〉へ――。
 いま、〈群馬〉を考え、〈群馬〉から見ることは、地域の諸問題の解決に示唆を与え、新たな地域文化の創造による地域の発展に寄与するばかりではなく、他の地域や日本、あるいは世界におけるそれぞれの文化の特性をあらためて照らし出し、人や文化が抱える普遍的な課題を問い直すことにつながろう。
 「群馬学」とは、〈群馬〉について意見交換し、総合的に調査?研究することによって、地域に生きる人びとや文化の抱える課題、日本やアジア、あるいは世界の人びとや文化の抱える課題を問い直す場である。研究者、経済産業界の有識者などをはじめとする地域に生きる人びとはもちろんのこと、広い地域の人びとの参加が不可欠である。
 ここで〈群馬〉をその対象とするのは、〈群馬〉が県というひとつの行政区画であるとともに「上野国」という歴史的な意義を与えられてきたことによる。ただし、それが「上毛学」「上野学」「上州学」などではなく「群馬学」とするのは、この「群馬学」がすぐれて現在性を帯びているからである。「群馬学」は、決して郷土意識を閉塞的に確認するものではなく、〈群馬〉という生活世界をその基盤としながら、現在、そして未来に開いていくものである。
  国際化?グローバル化が進む今日、「群馬学」の確立は急務である。こうした認識に立って、平成16年度は、それに向けた予備調査の実施やシンポジウムの開催などによって研究課題や方法論についての議論を深め、可能なかぎりすみやかに「群馬学会」を立ち上げることをめざす。

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